ソリューション営業のブログトップ > 日本史メモ

2008年5月20日

19.武士の登場

 お地蔵様3.jpg

 (1). 武士団の現出

    9世紀末から10世紀初め、国司と荘園領主が対立、世の中が無秩序化してくると、武装する           地方豪族や開発領主が現れるようになった。                                         彼らは賜姓皇族や中・下級貴族を棟梁に武士団を形成した。                               武士団の代表的なものが、清和天皇から出た清和源氏と桓武天皇から出た桓武平氏である。

      板東八平氏 (関東)                                                        伊勢平氏  (伊勢)                                                        多田源氏  (兵庫)                                                        河内源氏  (大阪)

(2). 承平・天慶の乱 (じょうへい・てんぎょうのらん)

   ①. 平将門の乱 (935年~940年)                                               桓武平氏出身の平将門は、父の死による相続が紛糾、一族の抗争中に国司とも対立、              939年朝廷に反旗を翻した。                                                  平将門は一時関東を支配したが、藤原秀郷、平貞盛の連合軍により討たれた。

   ②. 藤原純友の乱 (939年~941年)                                              同じ頃藤原北家出身の藤原純友は、瀬戸内海で海賊を率いて反乱を起こした。                   一時は太宰府を焼き払うなど猛威を」振るったが、清和源氏の源経基らによって鎮圧された。

2008年5月16日

18. 荘園の発生

えびね13.jpg

(1). 荘園とは?

    貴族や寺社が現地に設けた別宅や倉庫とその管理区域である土地を含めたもの。

(2). 重い負担に耐えかねる農民

    農民は、班田収受法に基づいて、口分田を与えられたが、租庸調などの税が課せられる              とともに防人などの負担もあった。 これらの重い負担に耐えかねて、口分田を捨てて他              の土地に逃げる農民も多くなった。

(3). 墾田の永久私有を認める

    口分田が不足してきたので、開墾を促進するため、743年に「 墾田永年私財法 」を制定、            新しく開墾した土地の永久私有を認めた。                                          これは公地公民を基本とする律令制度の崩壊を意味した。

(4). 初期荘園の発生

    墾田永年私財法により、財力のある貴族や寺社は競って土地を開墾、私有地を増やした。             これが初期荘園。

(5). 寄進地系荘園

    10世紀になると律令的支配体制を大きく転換せざるをえず、国司の権限を強化、一国内の            徴税と行政を全面的に任せるようになった。                                         一方、有力農民は、開発領主と呼ばれて、積極的に土地を開発、国司の厳しい徴税を逃れる           ため、中央の権力者に土地からの収益権を寄進、保護を求めるようになった。 こうしてできた          荘園を寄進地系荘園という。                                                   寄進地系荘園においては、不輸、不入の特権の拡大により、 荘園は土地と農民を私的に支配した。

(参考)

  ①. 不輸不入の特権 : 荘園に対する国家権力の支配を排除できる特権。                                     不輸とは、国家から租税の免税を認められたもの。                                     不入とは、国衙の検田使や収納使の立ち入りを拒否できる権限。

  ②. 国衙 : 律令制において、国司が地方政治を遂行した役所がおかれていた区画をいう。                   平安時代には、国司の役所そのものを国衙と呼んだり国司の行政、司法機構                    を国衙と呼ぶことが一般的になった。 ( 衙=が=役所、官庁 )

  ③. 国司 : 地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏のこと。                        ( 司=役人、つかさどる人 )

2008年4月27日

17. 藤原氏の天皇家との血縁と他氏排斥

たんぽぽ1.jpg

(1). 藤原氏北家繁栄の第一歩

    藤原冬嗣が薬子の変(くすこのへん)で、嵯峨天皇の信頼を得て、蔵人頭(くろうどのとう)に就任         したのに始まる。

     藤原氏北家の系図.pdf

(2). 天皇家との血縁

    冬嗣の子・良房は嵯峨天皇の皇女を妻とし、妹の順子(じゅんし)を仁明天皇の女御として権力を         掌握した。 また、順子と仁明天皇との間に道康親王が生まれると、文徳天皇として外戚となった。        以後も藤原北家は天皇家との血縁を結び更に権力を強固にした。

(3). 他氏排斥

    天皇家と血縁を結ぶ一方、政敵を次々と陥れ、その地位を盤石にした。                        以下は藤原北家の他氏排斥の歴史。

    ①. 842年 承和の変  嵯峨上皇がなくなると、謀反を企てたとして、伴健岑を隠岐へ、橘逸勢                         を伊豆への流罪とした。

    ②. 866年 応天門の変  平安京応天門が炎上した事件で、伴氏、紀氏を排斥、事件後に清和                         天皇の摂政になった。

    ③. 888年 阿衡の紛議  宇多天皇と橘広相の娘の間には2人の皇子がいた。 宇多天皇が即位                       する際、広相起草の詔勅の文言に藤原基経がクレームをつけ、基経は                        自分の娘を入内させることに成功した。

    ④. 901年 昌泰の変  宇多天皇、醍醐天皇の信任が厚く右大臣にまで昇進した菅原道真は、                        藤原時平の讒言によって九州・太宰府に左遷された。

    ⑤. 969年 安和の変  源高明の娘婿・為平親王は冷泉天皇の有力な皇太子候補だった。                           藤原実頼は讒言により源高明を失脚させた。

(4). 藤原良房、摂政になる

    藤原良房は、自分の娘・明子を文徳天皇の女御に送り込み、その間に生まれた惟仁親王を9歳で        清和天皇として即位させ、866年皇族以外ではじめて摂政になった。

2008年4月25日

16. 桓武天皇の東北地方平定

唐沢城址1.jpg

(1). 大和朝廷の中央集権化に対して、東北の「 蝦夷 」(えみし)は服属を拒否していた。

(2). 658年 阿倍比羅夫を秋田、津軽地方へ遠征させた。

(3). 大和朝廷は、8世紀には日本海側に出羽国を新設、秋田城を築城、太平洋側には、多賀城を築き       、陸奥国府、鎮守府とし、軍事、行政上の拠点とした。

(4). 780年 蝦夷の豪族・伊治呰痲呂(これはりのあざまろ)が反乱を起こし、これを機に反乱が続いた。

(5). 789年 桓武天皇は、征東大使・紀古佐美に大軍を与え、蝦夷の制圧に向かわせたが、打ち                破られた。

(6). 794年 大伴弟麻呂を征夷大使、坂上田村麻呂を副使に10万の大軍を送り、成果を上げた。           797年 坂上田村麻呂は、征夷大将軍に昇進した。

(7). 802年 胆沢城を築き、鎮守府を多賀城から移し、東北地方平定に邁進した。

(8). 805年 桓武天皇の決断で、民衆に多大な負担を強いた東北遠征は中止となった。                      これ以降東北地方は次第に大和朝廷に帰属、大和と一体化していった。

2008年4月21日

15. 千年の都「平安京」の誕生

 

花4.jpg

 

(1). 平城京へ遷都(710年)して70年も経つと、仏教勢力が力を持ち、政治に干渉するようになった。

(2). 781年に即位した桓武天皇は、道鏡の専横によって混乱した政治を立て直すとともに、仏教勢力        を排除するため、784年長岡京へ遷都した。

(3). 785年 長岡京造宮使の藤原種継が暗殺され、ついで桓武天皇の弟で皇太子の早良親王がこの       事件に関与しているとして廃太子となり憤死した。 これとともに、洪水、疫病が相次いで人心が不        安定になった。

(4). このため、794年人心一新のため再び遷都が行なわれた。                              新しいい都は「平安楽土」を記念して「平安京」と命名された。

(5). 平安京は、東に川(鴨川)、西に道(山陰道)、南に池(巨椋池)、北に山(船岡山)という風水の四神       (しじん)の考えによって場所が選定された。

2008年4月18日

14. 公地公民制の崩壊

ボケ2.jpg

(1). 班田収受                                                              天皇、皇族、豪族が私有していた土地、人民は702年の大宝律令により公地公民(国家所有)          になった。 このため、6年に一度戸籍が作成され、農民に口分田(くぶんでん)が与えられる           班田収授が実施されることになった。

(2). 口分田の不足                                                           奈良時代に入ると、税や労役の重い負担から逃れるため、豪族、貴族の支配下に入る農民が          増加して口分田が荒廃したり、人口が増加して口分田が不足するようになった。

(3). 三世一身法                                                             朝廷は、723年「三世一身法」 (さんぜいっしんのほう)を定め、期限付きで開墾地の私有を           認めた。 しかし、期限付きでは農民の開墾意欲は低調だった。

(4). 墾田永年私財法                                                          このため朝廷は、743年土地の無期限私有を認める「墾田永年私財法」(こんでん えいねん          しざいほう)を制定した。

(5). 公地公民制の崩壊と荘園の発生                                               墾田永年私財法により、貴族、寺社に私有地が増加、「荘園」(しょうえん)が発生することに            なった。                                                                公地公民制は、902年の班田で最後を迎えた。

 My Yahoo!に追加

2008年4月16日

13. 遣唐使 (けんとうし)

花1.jpg

(1).中国 : 「唐」  618年~907年

         高祖が長安を都とする国「唐」を建てた。                                           高祖は隋の制度を受け継ぎ、唐の支配体制を整備した。 唐は中央集権体制を強化、               中央アジアに達する広大な領土を持つ世界帝国へ発展した。 当時シルクロードを経由              して中国と西アジアの間で文物の交流が行なわれた。                                   しかし、安史の乱、黄巣の乱により滅亡した。

(2). 遣唐使 : 639年~894年 の間に19回派遣した。

         朝廷は中国の進んだ文化や制度、知識、技術をを取り入れるため遣唐使を派遣したが、              仏教の日本への伝播にも大いに貢献した。                                          遣唐使には、船を使用した。 船団は4隻で構成され、1隻に約100名が乗船した。                 船自体が平底で安定がわるかったが、航海術も未熟で、4隻すべてが往復できたのは               1回だけという非常に危険な航海だった。                                           主な遣唐使は次のとおり。

         ①. 第1回 : 630年  犬上御田鍬                                            ②. 第3回 : 654年  高向玄理                                              ③. 第7回 : 702年  山上憶良                                              ④. 第8回 : 717年  阿倍仲麻呂、吉備真備                                     ⑤. 第17回 : 804年  空海、最澄、橘逸勢

         * 894年  菅原道真の建議で遣唐使は廃止された。

My Yahoo!に追加

 

2008年4月14日

12. 遣隋使(けんずいし)

 

ボケ1.jpg

 

(1). 中国 「隋」 : 581年~618年

    581年 中国では文帝が隋という国を建てた。                                       文帝は、均田法、徴兵制をとりいれるとともに、律令を定め、租庸調の税制を導入、中央集権国家        体制を強化した。 文帝は九品中正法を廃し、学科試験によって官吏を登用する「科挙」(かきょ)         の制度を創設した。                                                        煬帝が高句麗遠征に失敗すると、各地で反乱が起こり、飢饉や水害が加わって、隋はわずか40        年足らずで滅んだ。

(2). 遣隋使 : 600年~614年 の間に4回派遣。

    聖徳太子が摂政のころ、朝廷が日本国内での影響力を強化するために利用するとともに、先進国       である隋の文化、制度を導入するため遣隋使を派遣した。                                遣隋使は次の4回派遣したが、607年には小野妹子を派遣、「日出ずる処の天子、書を日没する        処の天子に致す。 恙無きや、・・・ 」で有名な国書を持参した。 当時中国の煬帝は激怒したと         言われている。

    ・ 第1回 : 600年                                                        ・ 第2回 : 607年  小野妹子                                                ・ 第3回 : 608年  小野妹子、高向玄理、南淵請安ら                                ・ 第4回 : 614年  犬上御田鍬                                                       618年  隋滅亡

 My Yahoo!に追加

2008年4月12日

11. 奈良時代

カイドウ3.jpg

 (1). 710年~793年 が奈良時代。

(2). この時代には、飢饉や疫病で民が苦しむ一方、皇族、貴族が権力闘争に明け暮れた。

    ①. 729年 長屋王の変  ②. 737年 藤原武智痲呂ら藤原氏4子の死去                   ③. 738年 橘諸兄の右大臣就任  ④. 740年  藤原広嗣の乱                         ⑤. 764年 孝謙上皇が道鏡を寵愛したため、藤原仲麻呂が764年に挙兵したが、敗れた。                   道鏡は、太政大臣、法王になり政界に君臨するが、称徳天皇(孝謙上皇が即位)                  が770年に病死すると、失脚、左遷された。

(3). 741年~  聖武天皇は、仏教の鎮護国家の思想によって、政治、社会不安を鎮めるため、                   唐にならって国ごとに国分寺、国分尼寺を建立した。

(4). 752年  聖武天皇は、都に総国分寺として東大寺を創建、大仏を造立、開眼供養を行なった。

(5). 729年~749年  天平文化

           遣唐使や留学僧がシルクロード、唐経由で西アジア、インドなどの文物を伝え、国際色              豊かな文化「天平文化」が日本で花開いた。 聖武天皇愛用に品をはじめとする天平の              文物は東大寺の正倉院に収められて現存する。

(6). この時代には、日本初の鋳造貨幣である富本銭や和同開珎などの貨幣が流通した。

(7). 712年  古事記                                                          720年  日本書紀

           朝廷は、国家の成り立ちを「古事記」、「日本書紀」にまとめるとともに、各地方の産物、               地理を記録した「風土記」も編さんさせた。

(8). 743年  「墾田永年私財法」

           重税や兵役など重い負担に耐えかねて、逃げ散する農民が多く、口分田も不足したので             、「墾田永世私財法」を出し、新しく開墾した土地の永久使用を認めた。 これは公地公民             が基本の律令制度が崩壊するもとになった。

 My Yahoo!に追加

2008年4月11日

10. 日本初の計画都市(首都)

 

花6.jpg

 

(1). 持統天皇は690年に即位した。

(2). 持統天皇は、中央集権国家を推進するため、694年に藤原京へ遷都、唐の長安にならって           首都を日本初の計画都市とした。

(3).元明天皇は、710年奈良盆地に遷都、「平城京」を建設した。

(4).平城京には多くの大寺院が建立された。

(5).7世紀後半~8世紀の日本の首都。                                             古来天皇の住まいである「宮(みや)」は一代限りで移転する慣習があった。

   ①. 667年  天智天皇  近江大津宮                                           ②. 672年  天武天皇  飛鳥浄御原宮                                          ③. 694年  持統天皇  藤原京                                              ④. 710年  元明天皇  平城京                                              ⑤. 740年~745年  聖武天皇  恭仁京 → 難波宮 → 紫香楽宮 → 平城京               ⑥. 784年  桓武天皇  長岡京                                              ⑦. 794年  桓武天皇  平安京

 My Yahoo!に追加

2008年3月30日

9.律令国家の完成

 

カイドウ1.jpg

1. ヤマト政権は氏姓制度を支配体制としていた。

2. 大化改新以降、遣唐使によって、唐の律令制度がもたらされ、これを取り入れる動きが出てきた。        律は刑法、令は行政法に相当する。

3. 668年の天智天皇による近江令、689年の天武天皇による飛鳥浄御原令が制定されたとされるが、      現存しない。

4. 701年(大宝元年)本格的な律令「大宝律令」が制定され、天皇中心の中央集権国家の体制ができ       あがった。

5. 律令による中央官制は、下図のとおり。

  律令による中央官制.pdf

6. 律令による税制は以下のとおり。

   租 : 農民に田を口分田、位田、職田など私的使用を許す代わりに、田の面積をもとに頭割計算            で稲を納める税金。

   庸 : 毎年10日間の労役によって納める税金。

   調 : 繊維製品や海産物、鉱産物など土地の産物で納める税金。

 My Yahoo!に追加

2008年3月26日

8.壬申の乱

紅葉14.jpg

1. 661年、第37代天皇・斉明天皇が急死した。

2. 668年、皇太子であった中大兄皇子が、近江大津宮で第38代天皇・天智天皇として即位した。

3. 天智天皇は、即位の3年後に崩御するが、崩御の前に同母弟で有力後継候補の大海人皇子          ではなく、身分の低い采女に産ませた大友皇子を後継者に指名した。

4. 大友皇子は、第39代天皇・弘文天皇として即位した。

5. 672年、兄の目を晦ますために吉野に隠棲していた大海人皇子は挙兵、大津へ侵攻した。            大友皇子の近江朝軍は瀬田の戦いに大敗、自害した。

6. 大海人皇子は、第40代天皇・天武天皇として飛鳥浄御原宮で即位した。

 My Yahoo!に追加

2008年3月22日

7.大化の改新

紅葉55.jpg

1. 蘇我氏は、稲目→馬子→蝦夷→入鹿 の四代にわたり政権を掌握していた。

2. 中臣鎌足(後に藤原鎌足)は蘇我氏の専横に憤り、天皇家に権力を取り戻すため、中大兄皇子を        見方にした。

3. 皇極天皇9年(645年)6月12日、飛鳥板蓋宮で、中大兄皇子と中臣鎌足は蘇我入鹿を暗殺した。        翌日蘇我蝦夷は自邸に火を放ち自殺し、蘇我氏の体制は崩壊した。 この蘇我氏滅亡の事件を         「巳の変乙(いっしのへん)」という。

4. 乙巳の変の直後、皇極天皇は退位、皇弟の軽皇子が孝徳天皇として即位した。                   中大兄皇子は皇太子になった。

5. 645年6月19日、孝徳天皇と中大兄皇子は群臣を集め「皇道は唯一である」旨宣するとともに、         年号を「大化元年」と定めた。

6. 645年年末には、役100年都であった「飛鳥」から「難波」に遷都、豪族の地縁を切り離そうとした。

7. 大化2年(646年)1月に「改新の詔」が出され、大化の改新がスタートした。                     改新の概要は次の通り。

   (1).公地公民制 : それまでの豪族の私地、私民をすべて天皇のものとした。

   (2).班田収授の法 : 公地を公民に貸し与える。

   (3).祖庸調 : 税や労役を公民に負担させる制度の改革。

   (4).令制国(りょうせいこく) : 行政区分を整理、それまでの国郡県制から令制国に改め豪族                             の力を排除した。

 

2008年3月18日

6.聖徳太子

観音様.jpg

1.  574年 父・用明天皇、母・穴穂部間人皇女の間に生まれる。 622年逝去。

2. 587年 蘇我馬子とともに、排仏派の物部守屋を攻め滅ぼした。

3. 593年 20歳で女帝・推古天皇の摂政となる。

4. 603年 冠位十二階を制定。 政治的地位の世襲を打破し、個人の才能や功績によって位階を授け広く    人材を登用しようとした。

5. 604年 憲法十七条を制定。 官僚の心構えを説いた。

6. 605年 斑鳩に移り、斑鳩寺(法隆寺)を建立。 仏教典の注釈書「三経義疏(さんきょうぎしょ)」を著述。

7. 607年 小野妹子を遣隋使に派遣。 隋に「 日出る処の天子、日没するところの天子に書をいたす。     つつがなきや・・・。」の国書をおくり、隋の皇帝・煬帝が激怒したていわれている。 聖徳太子は、摂政の     間に4回遣隋使を派遣した。

2008年3月16日

5.仏教伝来

紅葉92.jpg

1.仏教は、538年、朝鮮半島の百済の聖明王によってもたらされた。

2.日本国内では、崇仏派(蘇我稲目=そがのいなめ)と排仏派(物部尾輿=もののべのおこし)が対立した。

3.欽明天皇を支える新興豪族の蘇我氏が崇仏派、軍事、神事につながりのあった物部氏が排物派。

4.朝廷は、伝来からしばらくは仏教を公認しなかった。

5.587年、蘇我馬子(稲目の子息)が厩戸王(聖徳太子)とともに、物部守屋を攻め滅ぼし、崇仏論争は決着  した。 これにより朝廷は仏教を公認することになった。

2008年3月14日

4.古墳時代

紅葉89.jpg

1.古墳時代は、3世紀後半~6世紀後半。

2.大和地方(奈良県)に、大王と有力豪族によるヤマト政権が誕生。

3.5世紀後半~6世紀にかけて「氏姓制度」(臣、連など)による支配体制が整備された。

4.大和地方を中心に、巨大な前方後円墳など多くの古墳が築かれた。

5.5世紀~6世紀、朝鮮半島の百済、伽耶諸国から多くの人たちが渡来。 製陶、建築、養蚕など最新の     技術、知識をもたらした。

2008年3月13日

3.弥生時代

紅葉35.jpg

1.弥生時代は、紀元前2世紀~紀元3世紀ごろ。

2.弥生時代には、稲作による農耕文化が発達、貧富の差が生じ、社会が階級化した。

3.人は竪穴住居に住んでいたが、穀物は高床の倉庫に保存。 村は外敵に備えて周囲を掘りや柵で囲った。 「吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)」は環濠集落の代表。

4.漢書によれば紀元前100年ごろ、倭国(=日本)は約100の小国に分裂、内戦状態だった。

5.魏志倭人伝によると、紀元180~190年ころ、倭国は約30国で構成された連合国家「邪馬台国(やまたい  こく)」があった。邪馬台国の女王「卑弥呼(ひみこ)」は魏に朝貢、「親魏倭王」の金印を与えられた。

6.後漢書・東夷伝によると、紀元2世紀ころ、後漢は倭の国王に対し「漢委如国王(かんのなのわのこくおう)」  の金印が授けられた。 この金印は1784年博多湾の志賀島で発見された。

 

2008年3月10日

2.縄文時代

梅3.jpg

1.縄文時代は、日本列島がアジア大陸から離れて島国になった約12000年前から、10000年続いた。

2.縄文時代には土器が発明、使用された。 土器を使用することにより食べ物を煮炊きできるようになり、食べ物の幅が大幅に広がった。

3.食べ物は、ドングリ、クルミ、クリを主食としていた。 魚介類としてはアサリ、ハマグリなどを食べ、貝殻が貝塚として残っている。 魚としてはボラ、鯛、マグロ、鮭など、肉としては鹿、猪などを食べていた。 食料の種類は豊富だった。

4.約6000年前の縄文時代前期は、現在より2~3℃ほど気温が高かった。 このため北半球の氷床がとけて、海水面は現在より5メートル前後高かった。

5.縄文時代末期に大陸から稲作が伝わった。

2008年3月 8日

1.日本列島と日本人のご先祖様

梅15.jpg

1.日本列島は大昔はアジア大陸と地続きであった。 今から12000年前ごろそれまで続いた氷河期が、地球 温暖化による海面上昇によって海面が上昇、大陸から分離した。

2.日本列島がアジア大陸と地続きであった時代には、アジア大陸南部から「古モンゴロイド」とされる人たちが 移動してきた。 この人たちは、狩猟、採取の生活をした。 彼らは二重瞼で顔のほりが深く、手足が長くて、  体毛が濃いという特徴を持っていた。この人たちは縄文人の祖先になった。 彼らは、クリ、ドングリ、クルミな どを主食とした。

3.紀元前5~4世紀ころ、シベリア等から朝鮮半島経由で「新モンゴロイド」と言われる人たちが日本に渡来し  た。 彼らは農耕生活を行ない、一重瞼で度が長く、体毛がうすい。 この人たちが弥生人の祖先となった。

4.古モンゴロイドと新モンゴロイドが混血を重ねて日本人が形成されるとともに、日本全国に広がった。

5.時代は旧石器時代から縄文時代へと進む。 縄目模様の土器が使用されるようになり、魚、貝、動物が土器  で火を使用して調理されるようになった。 青森市の三内丸山遺跡は縄文時代中期の遺跡。